幼い頃から本に囲まれて育った。
家の書庫や地下室には、なかなかの稀書もあり、
又、一方では医者の大叔父たちが解剖のときに検体の上に教科書を置き、
その上で弁当を食べたという
いわくつきのものも束ねてあった。
昭和の20~30年代は大概の家には偉人伝があり、
リンカーンやワシントンなどの逸話も読まされたが、
率直に言って、そんなものよりファーブル昆虫記や
探偵小説(今やミステリーという呼び名となったが)、
例えばドイル、チェスタートン、クリスティ、クイーンなどをむさぼるように読んだ。
日本のものではやはり楽しいものということで
漱石の坊ちゃん、猫が愛読書となり、
今では題名は忘れたが独歩の武蔵野の中の一篇に何とも言えぬユーモラスな個所があり、
何度も読み返しては同じところで笑ったものである。
しかし、今、思い返せば漱石はともかく、決して早熟とは言えなかった自分にとって
小学生の身でなにゆえ独歩に手が出たのかが思い起こせない。
確実に言えるのは当時の書籍にはルビをふってあるものが多く、
漱石などは旧仮名遣いであったとはいえ、
子どもでも字面を追うことはできたということである。
子ども、否、大人ですら読書離れが言われる昨今、
ルビを復活させることも大いに効果があると思えてならない。
小学校の高学年から中学生にかけて読書好きがこうじて、
徹夜で読み耽ることも度々であったが、
探偵小説、推理小説などは読み始めると結末を知るまで
一気に読み終えたいとの思い已みがたく、
しばしば、風邪や腹痛などと言って学校を休み、読み続けたものである。
一方、当時の年代では旧制高校の伝統がまだ懐かしく語り伝えられていた頃であり、
又、通学していた中学校は高校までの一貫教育で、
随分大人びた先輩の影響もあっていわゆる背伸びをしながら互いに読書を競う雰囲気の中で、
理解も出来ないような書物を抱えて見せびらかしながら通学したのも懐かしい思い出である。
それ以来、読書は自分にとって無くてはならない存在となった。
ジャンルといえば、何でも、ダボハゼの如くどの様なカテゴリーの書物にも手を出す。
いわゆる、濫読スタイルである。
オフィス、自宅などで同時に10冊程度の本を併行して読む。
その中にミステリーを常に一冊は入れておく。
海外勤務時代にオフィスの片隅に前任者達が転勤で
離任するときに残していった本を集めた棚があり、
図書館と称していたが、
その中に池波正太郎のシリーズがあって読み始めたら止まらなくなった。
海外に出ると妙に日本のことが気になり、
特に時代物などに惹かれるものだと代々継がれてきたものだったが、
自身もその通りとなり、やはり日本人であることを痛感した。
余談だが、それまでは絶対に聴かなかった
ド演歌というものにはまってしまったのもそれがきっかけである。
もっとも、自分で歌うことは日本の国益に沿わないことを自覚しているので、
絶対にカラオケなどには誘わないでもらいたいと思う。
閑話休題、
それ以来、時代物もカテゴリーに入るようになった。
藤沢周平などもその典型だが、
今の日本人が忘れているものを思い出させてくれることも読みたくなる理由のひとつだ。
序でに言えば、年齢とともに涙もろくなるのが一般だというが、
この様な本を読むと必ず涙腺が緩むので
我が年齢も確実に増えていることを実感させられる。
昔から「読書には鞍上、枕上、厠上」と言われる通り、
読む場所を選ばず、尾籠な話ながら朝は4時頃からトイレに籠もりきり、
何人にも煩わされず読書に集中できる有難さは格別だ。
快適な空間を実現してくれたTOTOやINAXには感謝頻りである。
又、大学に通う電車の中では、
都内の電車とは全く異なり、ゆっくり読書ができることが有難い。
上田女子短大に奉職した御陰様である。
学長室でも読み耽ろうと思っていたが、
新米の悲しさ、その余裕がまだない。
書棚にならんでいる書物をうらめしく眺める日々である。
処が、その中の或る本を貸して欲しいという学生が既に2名現れた。
本学の未来に大いに自信を持った所以である。
現在、自宅には、読み終えた書物の他に未読のものが約1,000冊はある。
本に囲まれていると何となく落ち着くとは言え、
死ぬまでに読み切れるかどうかと思うと少し焦りがある。
物集高見翁は五十歳にして書籍を五万冊集め、
死ぬまでに全て読破したというが、
彼には辞書編纂という大きな目的があった。
私に於いては高邁な理想など全くない。
ただ読むだけである。純粋に読書を楽しんでいるのだ。
余念などない分だけこちらの方が高尚だとひとり自惚れている。
片っ端から読むことを心掛けているが、
書店で見かけたり、書評などで興味を持つと、ついつい買ってしまうので、
未読のものは減るどころか増えるばかりだ。
生来の貧乏性のゆえか、
目についた本は今、手に入れておかねば再び出会うことはないという強迫観念が強い。
まさに Now or never だ。
特にインターネットで注文できるのが両刃の剣になっている。
妻からは、読みもしない本を集めていったいどうするのよ、
ファックスはあなた(私のことである)の部屋にしか無いのに、
床に積んである本をかき分け進まなければファックスをとりにいけぬ、
この間は本に蹴躓いて捻挫した
と批難ごうごうだが、こちらも譲る訳にはいかない。
たとえ読まなくても、本に囲まれている生活は、
そこはかとなく文化を醸し出すのだから文句を言うなと精一杯抵抗している。
どうにも抵抗し切れなくなった暁の最後の砦のせりふも用意してある。
あの鈴木大拙の言葉だ。
「書物は読まなくてもよい。所持するだけでよろしい、書物の放出する気を取り込むのだ」。
あの大拙先生の言葉だぞ、頭が高い、と言ってやる積もりだ。
但し、取り込んでもその程度なの?と言われてしまえばそれまでだが・・・。
買う本の中には同じ物が二冊、三冊あることにも気付かされる昨今である。
我が身の老化は着実に進んでいる。
ハードカバーの物が文庫本になったとか、
改題された物とか、必ずしも原因が記憶の衰えといえぬ場合もあるが、
第一の原因は未読だ。読んでいないのだから内容に就いての記憶があろう筈もない処に、
例の貧乏性と相俟って、面白そうな本だから今買っておかねば、
ということで同じ物が読まれぬ侭に増え、
手狭な書斎を更に狭くするのだ。
そこに音楽や落語のCDが加わっていよいよ収拾がつかなくなりつつある。
いずれ書物に押しつぶされるか、書物の放つ“気”によって狂死するか、
いずれでも良い。我が本望、理想の死に方でもある。
家族からは絶対に評価されないことには自信がある。理解なぞ求めぬ、
孤高という言葉になぜか憧れが強くなってきた。
なり得るかどうかではない。そう思うことだけでも凡人には尊いのだと慰めつつ思っている。
母や父が曾て愛読書に夫々の蔵書印を押していたのを思い出し、
昨年、思い立って鳩居堂で自分用のものを作ってもらった。
印材は石、篆刻による蔵書印である。
出来映えがよかったので、
妻、子どもたちにも夫々の蔵書印を作って渡した。
決して安い買い物ではなかったが、
一冊一冊に押印する愉しさは格別である。
この愉しさを家族で共有できることも又、格別なものだ。
娘は生来の読書好きであるが、押す悦びに浸っているようでなかなか微笑ましい。
願わくば、古本屋に売ってしまうような本にだけは
「何々家蔵書」という判子が麗々しく押されていないことを念ずるのみである。
毎年、その年の読書の目標を定めてきた。
例えば、昔は洋書を年間3,000頁読むことを自らに課していた。
ところが最近は段々読む速度が遅くなり、
1,500頁に半減させたもののそれでも読み切れず、
業務上読まざるを得ないものを含めることで、
自分自身に勘弁してもらっている体たらくである。
それでも、なかなか達成できなくなってきた。
老眼も進み、大きな活字にすれば、
ペイジも稼げるなどとさもしいことを考えるようになったのは我乍ら情けない極みである。
今年は思い立って、「幸福論」と名の付く本をできるだけ読破しようと考えている。
アランの幸福論が有名だが、
昔、読んだことを「学問への招待」の講義に引用できぬか考えていたところ、
ヒルティやラッセルなど教育論を書いた人たちだけでなく、
ショーペンハウエルも「幸福について」と題した本を著していることを知った。
彼の哲学論には歯が立たなかったが幸福論なら何とかなるのではと思い、
それならば斯かるタイトルの本を読めるだけ読んでやろうと五月に思い立った次第。
今年中に全て読了と思っているが、
一方で、早や、この手の本は文庫本の常で活字が極めて細かい、
虫眼鏡が必要、肉体的なハンディキャップを負ってしまった。
悪いのは根性ではなく肉体的に低速航行しかできない目なのだと、
まづ言い訳も同時に用意してしまった。
つくづく情けない根性と慨嘆するのみだが、
それでも今、ヒルティの幸福論(第三部まである!)
の1冊の三分の二程度まで読み進めてきた。
学生には本を読め読めと言いながらなんだとは思うが、
学生に書いてもらった小論文へのCOMMENT書きに忙殺されているのでということも言い訳に使えそうだ。
先日、本学の図書館に寄った。
本来、図書館は好きな場所の一つであり、
読まずとも本に囲まれていれば満足という性格でもあるので、楽しいひとときであった。
訪れた時には、
静謐な中で、
学生がひとり黙々と勉強している姿が其処、此処に見られ、
或る教授も何か調べ物をされている様子で書物を広げておられた。
洵に学問の府らしい光景で、意を強くした。
ざっと一覧しただけであるが、
長野県、就中、上田の地元の資料などもあり、時間を作って渉猟したいと強く念じている。
図書館で本好きの人々、同好の士に出会えれば幸せだ。
至福の時である。
新米の学長に対しては、
是非とも難しい質問(どうせ答えられないのだから)など野暮なことをしないで、
ゆっくり図書館の雰囲気を楽しませてやろうという暖かい思いやりを何よりも強く期待するものだ。
(学長 小池 明)